佐賀県唐津市厳木の妙法寺温泉と炭住

昨年のことですがNHKの番組で「ふだん着の温泉」と言うのを放送していました。
上記の厳木(キュウラギと読みます)の炭鉱跡に1960年に新しいお寺さんが立宗されそこの住職が温泉を掘り当てて
毎週、火木土日と祭日に入ることが出来ます(約20℃なので沸かさないといけません)。
その温泉に近くの住人が入ると言うことで、以前炭鉱で働いていた永末スエさん(90歳)は炭鉱で共に働いた亡夫が
築いてくれた「かまど」を今も大切に使っていると言うのをストーリーの中心において放映されていたようです。

山腹に威容を誇るお寺さんの周りはまだ炭鉱長屋が沢山ひしめいていますが、
既に半数は取り壊されて木造の市営住宅に変わりつつありました。
新築の市営住宅は矢張り小さな規模なのですが以前の長屋2軒分を1軒程度に
広くしているのではないかと思いましたが確かめてはいません。

これは閉山の時に住民の方々に土地建物の所有権を譲ったので地主さんが沢山いらっしゃるわけです。
おそらく退職金の一部と言うことだったのだろうと推測します。
炭鉱は大正時代から稼動をはじめ、昭和9年頃「新屋敷炭鉱」が本格的に採炭を開始し昭和36年の閉山まで続いたようです。
一時はこの町に2万2千人の住民がいたと言う隆盛だったようですが今は設備も全く姿を消して炭住長屋だけが静まり返っています。



手前は既に改築あるいは再建された長屋、その向こうに見えるのが妙法寺。


手前の住宅は長屋ではなく旧職員の住宅と思われる一戸建てですね、歪んでいますがお住まいです。


新築の家と軒を連ねる倒壊の始まった家


身を寄せ合う長屋。


手前のほうは既に取り壊されて新しく生まれ変わり中の市営住宅。


横路地は流石に部外者の私には通り抜け出来ませんでした。


子供の姿も見かけませんが公民館の中の遊具は動かさないように鉄筋で固定されていました。


トーフ屋さんは本日はお休みだったようです。
もう一見普通の長屋の一角でお好み焼きの旗を掲げているところがありましたが駄菓子屋さんなども全くありません。


豆腐屋さんの向かい側あたりには一戸建ての住宅が小さいながらもお庭付きで残っています。
多分職員住宅でしょう。


もうひと気のない・・・廃屋のようです。


家のガラス窓の中にも枯れた雑草が見えました。


場違いな感じのお寺さんと老人ホームと小さな市営住宅ともっと狭い炭鉱長屋。
そこで手押し車を曳いたおばあさんを見かけました。


皆さんここの「新屋敷炭鉱」で働いた方たちでしょうね。
神棚に供える榊と1日、15日に作るお赤飯とねぎやイチゴ
ねぎはひん曲がりイチゴは大小取り混ぜ、小松菜は虫食いでしたがしばしの会話が静かな宅地に広がります。



わたしゃお赤飯を4個とイチゴば貰うよ。
ちょっとお金ば家まで取りに戻るケンここに置いとくよ〜。
なんば云いよるとね、お赤飯はいまもっていかんねお金は後からでよかとよぉ。



あれまぁ、こんな別嬪さんば写してどうするとねぇ?
アンタはこの前も写真ば撮りよんなさったろうがぁ、もうちょっと若い人ば写さんねぇ(私は初対面なんですが・・・)。
とやんわり窘められましたが、「オバチャン、写真に撮られると若返るとよぉ」と誤魔化してシャッターを切るワタシ。


文頭に出てきた亡夫のかまどを大切に使っている永吉スエさんとはお会いできませんでしたが
84歳になる妹さんとは温泉で一緒になりお話しを聞かせていただきました。

当然男湯女湯、別なんですが男湯は僕一人、女湯は家内と永末さんの妹さんだけでしたので
話し声は通り抜けますし不明確なところはあとで家内に聞きました。

そのお話では20歳ぐらいの時炭鉱でガス突出が発生し傍にいた3名の方は焼死、
この方だけは火傷はしたものの一命をとりとめ、1年間入院して2年間は仕事が出来なかったと・・・
その時の慰労金が5万円ほど出たと言うことでしたがこの方が二十歳ぐらいだとまだ戦中じゃ無いかなぁ?
そんな金額が出るはずはありませんよね。
既にお嫁には行っていたので良かったと言う事でしたがおそらく戦後で30歳前だったのでしょうね。
その頃は人前で裸になるのが苦痛でしたと云うことでしたがそれから半世紀以上経ち、
家内が拝見してもお肌は普通どおりに見えたと言うことでした。

そして炭住はみんな個人所有となるも既に閉山から40年以上が経ち老朽化したので市が買い上げて市営住宅にし
今度は自分が家賃2万円を支払わなければならないと言うことでした。
あと5年ほど元気で住めればその方がいいか、あるいは命と共に朽ち果てたがいいのか悩むところだとのお話でした。

小さな明るい温泉のお湯のなかでサラサラと流れていくような静かな語り口でした。

END

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